伊左久右衛

伊左久右衛(いざきゅうえ)とは、古くから中山で行われている義民のお祭です。河合伊左衛門、河合久右衛門両氏の名前がその由来となります。

※伊左久右衛御詠歌はこちらのページから聞くことができます。

時代背景

延宝年間(徳川5代将軍の頃)三河国渥美郡中山村一帯は不漁不作が続き、天和元年(1681)に至って最悪となりました。1682年から1683年は天和の飢饉と呼ばれる時期です。この時期は江戸四大飢饉には数えられていないものの全国的に被害が大きかったとされています。

 

村人を救うため願い出る

飢饉のため村人の暮らしは大変苦しくなりました。そこで、村の5人組頭一同が集まって、領主の御領林である西山の防風林の松の下枝や下草を払い下げてもらい、それを売って村人達の窮乏を救えないだろうかと考え、大庄屋河合伊左衛門と河合久右衛門に相談しました。ふたりの庄屋はこの申し出をこころよく引き受け、早速願書をしたためました。このことを中山村代官の日下野五郎右衛門へ申し出ましたが、この願いは聞き届けられなかったようです。困り果てた両庄屋は、江戸詰めの領主清水権之助政広公に訴え出る以外に方策はないと考え、深夜ひそかに村を出て江戸へ向かいました。そして西山の松の下枝下草の払い下げの許しをえました。

再び願い出るも刑に処される

しかし、これだけのことでは村民の窮乏が救えなかったので、今度は西山の立木数万本の払い下げを願い出ることにしました。両庄屋は、この二度目の願い出はなかなか難しい事は承知しておりましたが、死を覚悟して再び江戸へ出て村の窮状を訴えました。このことで両庄屋は手順を踏まず直接支配者(領主)に訴えたという越訴(おっそ)の罪で死罪になってしまいました。伊左衛門が江戸の鈴ヶ森で斬首となったのが天和2年(1682)2月25日、久右衛門が中山村で刑に処されたのが同年の6月晦日でした。

 

越訴とは農民一揆の形態の1つで直訴ともいわれます。その罪は重く首謀者等は死罪に処されました。農民一揆には越訴の他に大勢で徒党を組んで、暴力をもって領主や役人への要求を通す強訴(ごうそ)や、領民が領主の政治に耐えかねて多数で他の領地に逃亡する逃散(ちょうさん)があります。

 

両霊の供養塔が建てられる

村人達はこの事を知り深く悲しみましたが、当時の封建社会では何らできることもなく西湖院の境内にひそかに墓印を立てて、両霊を供養するのみでした。このことから数年後、中山村に害虫が大発生し田畑を荒らし農作物が全滅する被害に遭いました。すると、誰が言うということもなく「村のために身を捧げた伊左衛門久右衛門両人の祟りではあるまいか」という声がきかれたそうです。人々は両庄屋の菩提寺である西湖院の境内に供養塔を建てて、中山の地主神として祀るようになりました。

両霊の供養祭がはじまる

そのことから約130年後の文化期(1811~1817)に、この地方は再び大凶作に見舞われました。この時に、西湖院の本寺である堀切町常光寺の住職より両庄屋の戒名を授かり、両霊の供養と五穀豊穣、大漁満足を願う大施食を盛大に営みました。この施食には中山村の人々や中山地内に田地を持つ小塩津村の人々が参加し、当日田畑に出て働く人はいなかったといわれています。それ以来今日まで続く行事となりました。常光寺の住職から授かった戒名は、伊左衛門が放山慈光信士、久右衛門が真岩了空信士です。

 

戦後の出来事と、建てられた顕彰碑

昭和20年に終戦となり、陸軍の軍用地であった西山一帯が開放されました。その土地五百町歩が開墾され、地元民がその恩恵にあずかりました。ところが昭和27年、再び西山が現在の自衛隊にあたる警察予備軍の実射練習地の候補に挙げられ、没収計画が出されてしまいます。これを阻止するために、自治会、漁業会、各種団体や村民一同が、国会への陳情を重ね、やっと計画廃案にこぎつけました。

このような結果を得られたのも、両庄屋の英霊のご加護援助によるものであろうと考え、碑を建て、そのいわれを刻み両庄屋の遺徳を後世に永く伝えることを願いました。顕彰碑は西湖院境内と西山の中部電力敷地内にあります。(昭和28年旧正月、中山自治会建之)

このことを後の世に伝え、両霊を供養してまいりましょう

令和2年11月 北松山 西湖院